僕の住む街は昔に比べて驚くほど賑やかになったけれど、駅からほど近い公園の景色は今も変わらない。
池を囲むこの道を通るとき、いつも思い出すのがばあちゃんの笑顔と、みたらし団子だ。
2001年2月23日、ばあちゃんが死んだ。心不全だった。
僕は幼い頃、ばあちゃんに面倒を見てもらったおばあちゃん子だ。
一番思い出深いのは、毎朝一緒に公園で散歩したことだ。
ばあちゃんは健康のために歩いていたのだけれど、僕は散歩の後に必ず買ってもらえるみたらし団子を楽しみにしていた。
小学生になると、ばあちゃんと遊ぶ機会はほとんど無くなって、心なしか寂しそうに見えた。
そんなある日、友達が遊びにきたので、ばあちゃんは張り切っておやつにホウトウを作ってくれた。
ホウトウを食べたことがなかった友達は「なにこれ?へんなの。」と笑った。
自分もなんだか恥ずかしくなって一緒に笑ったが、本当は、ばあちゃんを馬鹿にされたようでくやしかった。
あのとき「おいしい。」と素直に言えなかったことを今でも後悔している。
ばあちゃんは1917年3月14日、ハワイの領事館で生まれた。
どんないきさつか知らないが、父親がコックとして領事館で働いていたそうだ。
3歳のときに一家は帰国し、食堂をはじめる。
その食堂に米を納入していたのがじいちゃんの父親で、やがてじいちゃんとばあちゃんは両家の縁で知り合うことになる。
じいちゃんは、まわりから鳶が鷹を産んだと言われたほど頭が良く、家業の米屋を引き継ぐことなく銀行員になった。
めでたく二人は結婚し、僕の叔母と親父を生んだ。
戦争さえ起こらなければ、一家はきっと幸せだったと思う。
日本は敗戦に近づくと、子供から老人まで、とにかく戦えそうな人間はどんどん徴兵した。
体の弱かったじいちゃんも例外ではなかった。
今からするとまるで狂気のように、国のために命を惜しまなかった人々の中で、じいちゃんは「日本は負けるだろうな。」と苦笑いしながら出ていったそうだ。
その後、じいちゃんは1945年8月10日、終戦5日前に、フィリピン、ミンダナオ島の山奥で病死した。
31歳だった。
食糧が底をつき、食べられるものは虫でも蛇でも口に入れなければならなかった状況で、米屋の息子だったじいちゃんは、どうしてもそれらを口にできなかったそうだ。
じいちゃんの骨壷が家に届くと、ばあちゃんはまわりの制止を聞かずにそれを開けた。
しかしそこにじいちゃんの遺骨は入っておらず、かわりに戦死者一覧の記事が書かれた新聞の切れ端が入っていただけだった。
ばあちゃんは泣き崩れた。
戦後の混乱の中、遺骨はおろか、戦死の状況さえも届かなかった。
ばあちゃんはじいちゃんと親しかったという兵士を見つけるたびに、食事を用意し、戦地でのじいちゃんの話を聞こうとした。
その中には、ただ食にありつきたいがために、実際はじいちゃんのことなどまったく知らない人もいたのかもしれない。
それでもばあちゃんは自分たちのぶんもままならないのに、彼らに食事を用意し続けた。
女手一つで2人の子供を育てることは、今とは比べものにならないほど大変だった。
昼も夜も働いて、くたくたになっても、食べるものは芋の葉やつるといったものしかなかった。
親父の話では、貧乏で母親しかいない家族は近所の人たちからよく馬鹿にされたそうだ。
みんなが生きることに必死で、互いを思いやる余裕なんてなかったのかもしれない。
それでも、僕はこの話を聞くと、いつもやるせない気持ちになる。
ばあちゃんは僕が高校生のときに認知症になって、次第に家族のこともわからなくなってしまった。
僕はそんな変わってしまったばあちゃんを見るのが嫌で、あまり見舞いに行かなかった。
それでも何度か見舞いに行ったときに、一度だけ、痩せ細ったばあちゃんが僕の名前を呼んで微笑んだ。
僕は今でもあの笑顔が忘れられない。
思い出の中のばあちゃんは、ちょっとふっくらしていて、いつも笑っている。
そして毎日散歩に行って、一緒にみたらし団子を食べている。
僕にはじいちゃんを亡くした悲しみなど微塵も感じさせることなく死んでいった。
ばあちゃんの部屋には、今の僕と同い年ぐらいの男性の写真があった。
親父にそっくりなその男性は、軍服を来て、悲しそうな目をしていた。
戦争は人の命を奪う。そして残される人がいる。
僕のばあちゃんよりも辛い思いをした人もたくさんいるだろう。
そして今も世界のどこかで戦争は続いていて、ばあちゃんと同じ思いをする人が増え続けている。
僕は、じいちゃんたちに「命を賭けた甲斐があった」と思ってもらえるような世界になることを、願ってやまない。